例の、オリンピックロゴについてです。
元々この問題については、基本的にデザインにあまり興味はないので、選考課程など、背景に広がる問題の方が遙かに重要だと思っていました。
まあ、あの大胆かつ無意味(あちこちで言われているように、あれだけ売れているデザイナーなら、写真なんか自前で撮ればいいわけです。少なくとも、コピペせずに同じパターンで写真を撮れば、パクリがばれる可能性は大幅に減る訳で)な盗用ぶりというのは一種の盗癖(精神病)なんだろうなと思うわけですが、それは単に関わりたくない人間と言うだけの話ですし。

ところが、よせばいいのにデザイン業界の一部の方々は火に油を注ぎたいようで、「業界では普通」と繰り返し、コケにされた国民の感情を逆撫でしてくれる訳です。とは言え、それらに対する反応は概ね「ふざけんな馬鹿」で終わっていた訳ですが、今回の「深津貴之」氏の弁については、コロッと「納得」してしまう人間が多いようで、怒り心頭に発してBlogの更新と相成りました。こんな事やってる場合じゃないのに!

元の記事:
よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?

さて、語り口が丁寧なのと、図版を多く使った見せかけの「解りやすさ」で多くの人を捉えたこの記事ですが、端的に言ってただの詐欺です。こう言う手合いが一番面倒な訳ですが、平易な言葉も優しい語り口も、論理破綻を埋め合わせる事はできません。

では、問題を最初に指摘しておきます。

1,「似ているか否か」と「盗用か否か」を故意に混同
2,デザイン経緯は全て想像の産物で、説得力もない
3,「文脈が違う」と言うふざけた理屈
4,「専門家なら解る」と言うロジックは許し難い



順番に説明します。


まず「似ているかどうか」ですが、そんなもの「似ている」に決まってます。
円の中に縦棒、そして円の外殻を使った左上と右下の飾りを見て、「似ていない」と思うなら目がおかしいです。だって、同じパーツで構成されているのですから。何しろ、デザイン的に似ていないという面で記事中で具体的に挙げられているのは、右下・左上の湾曲三角が縦棒と繋がっていない、と言う部分だけなのですから。

そもそも、記事内容は「似ているが同じではない(オリジナリティがある)」と言う物であり、この時点で既に欺瞞があります。何しろ、『アウトプットの形状が似通っても』と自分で書いているのですから。つまり、似通ってるんでしょ?と言う話です。

そこで彼が持ち出すのが、「#」と「井」と言う噴飯物の例なのですが、これ、似てますよね?似てるどころか、手書きだったら普通区別が付きません。私が頻繁に制作する書類では、問題点の前に#と番号を付けて整理し、以後その#プラス番号で略記したりする訳ですが、「井」と読み間違えるなんてザラです。(経過を書いた文章で、井のつく人名や地名などと見間違う訳です。逆も同じ)そこで彼が言い出したのが#と井を並べてもパクリとは言わない、と言う理屈。ええと、似てないかどうかの話でしたよね?そして、#が井のパクリではない(逆も又然り)なのは、似ているにもかかわらず、#と井が独立にできた物であると歴史的に知られているからです。日本語と英語の知識なら十分あると自負していますが(ところで、「#」って英語じゃないですよね……?)、普通に井と#を読み間違える場面があるのは見てのとおり。
つまり、この例えは論理のすり替えを行った上での煙幕で、読者をだまそうとしている文章の典型です。

つまり、パクリではないと強弁するだけでなく、「そもそも似ていない」と言うロジックを構築する(できてないですが)事で、切断処理を行おうとしている訳です。パクリかどうかで争ったら、もう争いようがない(信用がない)わけなので、パクリの前提である同一性に的を絞っている訳です。盗用の常習犯が提出した作品が盗用と見なされるのは、他に似たものがあった場合であって、そもそも似ていないと強弁すれば盗用の前提が消える、と言う論理構築ですね。ディベートのテクニックとしては見事ですが、要するに詐欺師の技術です。


次。
そもそも制作の経緯が違うから盗用ではあり得ない、と言う事を言っている訳なんですが、綺麗な図表を並べて説明しているあの内容に、前提となる資料がありません。つまり、単なる彼の想像の産物なわけです。「想定される」って書いてありますね。これまた画像で……
そして、その論に説得力があるかと言えば、問題外です。何故なら、「ロゴをパクってきて元となるフォントだけ変えた」と言う方法を排除できないばかりか、佐野研二郎の仕事内容を見る限り、そちらの方が余程説得力があります。一番重要なデザイン変更(三角の斜辺を局面に)を「亀倉リスペクト」って言ってますが、ロゴをパクったと見た方が余程自然ですよね?だって、Tが元のはずなのに、右下に突然三角が登場してるんですよ?どっから来たんです、それ?てか、この時点でもうTじゃなくてTLの融合(リエージュのロゴそのもの)ですよね?

あとですね、デザインパーツの読解もそうなんですが、そんなもの「言った者勝ち」で、後から何とでも言えるんですよね。と言うか、そのための釈明として出てきたデザイン経緯の内容が、あの滅茶苦茶な選考課程と「最初の案も盗用だった」と言う代物なわけで。これで擁護になると思ってる感覚が不思議でなりません。と言うか、勝手に佐野研二郎の方法論を代弁・解読しちゃってますけど、違ったらどうするんでしょう?



で、上と関連する3つめ。
何が「文脈」だ!?
ええとですね、そもそも作家の心中(誰にも解らない制作過程)を云々したのと同じ文章で、文脈って言葉を持ってくるセンスがCOOLですね。文脈で判断するのか作者の意図で判断するのか、どっちかにした方が良いと思いますよ。だって、それ相反する解釈法ですから。

で、「文脈」なんですが、これはかなり面倒な単語で、適当な論理をまき散らす似非学者が大好きな言葉なんですよね。要するに、歴史とか環境とか、周辺事情をまとめて表す言葉なんですが、「周辺」をどこまで取るかは論者次第なので、感覚的に使うと意味が解らなくなります。なので「歴史的文脈」とか限定した上で、どう言う意図で使うのかを明示する必要があるんですが、案の定ちゃんと説明されていません。
仕方ないので「文脈」を読むと、要するに「オリンピックのロゴだから劇場のとは違う」って事みたいです。まあ、文章に例えるならそう解釈するしかないでしょう。他に見あたらないので、解った人は教えて下さい。まさか、自分の想像したデザイン経緯の事じゃないですよね?そんな、検証できない・外から見えない物に「文脈」が発生するはずないので。

と、そう言う解釈するしかないと思うのでその前提で話しますが、そんな「文脈」の違いが言い訳になるなら、つまり既存のロゴをかっぱらって別の目的に使ってもOKって理屈になりますよね?「文脈が違えばオリジナル」なわけですから。こんなふざけた理屈はないし、何の擁護になってないのは間違いありません。私があのロゴをパクって、居酒屋「田中丸」(今適当に考えた)のロゴにしても、デザイナーさん達は文句言わないって事ですよね?だって、田中のTと丸の○を組み合わせてデザインしたと「想定」されますよね?
彼が言ってるのは、そう言う事です。



そして最後。
言うに事書いて持ち出してきたのが、「専門家への信任」です。コミュニケーションが重要、と言う理屈も、前提となる事実が「盗用の常習者を重用し、身内で仕事を回し合って誤りすら認めない」業界トップの姿では、話をする以前の問題でしょう。
何が頭に来ると言って、「専門家」が専門家であるための豊かな知見や事実の積み上げが、全く為されていないあの記事です。想像上の産物である「想定されるプロセス」以外に、何か証拠や論理はあるのでしょうか?

何故ここに腹を立てるかというと、今回の件が「専門家軽視」の文脈で用いられかかっているからです。建築業界における姉歯問題の際、「専門家」の設計がマトモかどうかは工学的に第三者が判断できました。ふざけた医療訴訟の数々で、科学的な裏付けによって医者達は反論を行いました(そして無視されて医療は崩壊しました)。歴史学はたびたび攻撃に晒されますが、歴史研究のロジックと史料批判能力は当然ながら説明可能です。この記事のどこに、そう言った原則や論理の説明があるのでしょうか?都合の良い想定を並べて、印象操作を行っているだけではないですか。

彼は記事中で、専門家としてのデザイナーの役割について「今回の軸となった展開性であったり、文脈、文化的な意義、あるいは5年後にも飽きがこないか?といったことは、ある程度の専門知識がなければ評価できないことです。」と書いています。また、『デザインの本質は「課題を解決すること」と「新しい価値を提案すること」です。』とも。

しかし、一体五輪ロゴの「課題」とは何かも、あのロゴが提案した「価値」も、記事中には書かれていません。これは一体どう言う事でしょう?上記のように、明言されない上に要するにコンペの募集要項以上の内容ではない「文脈」も、「文化的意義」も、何故あれが「5年後にも飽きが来ないと言えるのか」もです。ひょっとして彼は、自分は専門家はないと言いたいのでしょうか?(皮肉)

そして、唯一丁寧に記されている「展開」については、要するに違う経緯で作られたかもしれない、と言う話でしかありません。記事の表題に反して「似ていない」の証明にはなりませんし、じゃあどうだったら「似ている」になるのかと言う反証可能性が担保されているようには、とても見えません。
また、展開力があると言う話についてですが、そもそもオリンピックのロゴは「”良くない”から問題になったわけではない」と言う点を、丸ごと無視しています。って言うか、善し悪しには言及しないと言ったのに、展開力を云々して「良いもの」であるという印象操作を行ってるのは卑怯です。



以上のように、非常に不誠実で不愉快、かつ「専門家」と言う肩書きを振り回したひどい論を見たので、久しぶりに記事を挙げさせていただきました。


最後に、本来もうこれだけで良いと思われる指摘をして、エントリーを閉じたいと思います。

「デザイナーと世間において、これほど大きな認識の違いが生まれた」と仰いますが、ベルギーのデザイナーは「デザイナー」ではないのですか?
そもそも、デザイナーなら似ていると思わないと言うのであれば、「感情面」の問題も出てきようがないはずですよね?
まあ、後者については、彼自身が「酷似している」と書いてしまってるわけですが……


医学者は公害事件で何をしてきたのか (岩波現代文庫)
医学者は公害事件で何をしてきたのか (岩波現代文庫)

↑過去に何度も貼った面白い本です。今回の件とは全然関係ないのですが(すっとぼけ)。
水準操作で問題点をずらして自分達の権威を守り、海外では活動しない(英語では論文を発表しない)事によって国内限定の異常な「常識」を作り上げて行った一部の医学者の姿に、色々と感じる所があるかと思います。
商標登録していないロゴを「野良ロゴ」と評し、商標と著作権を故意に混同する誰かのセンスとか、海外からの科学的異常性の指摘に対して「失礼だ!」と喚いたどこかの医学者(これは、この本の連中とは別)と同じ特権意識がにじみ出ていてとても好感が持てますね。ええ、全然関係ないんですけど(大事な事なので2度言いました)。




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