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この世界の片隅に

↑原作はここまで強い印象の作品では無かったのですが、映画の力ですね。

注:本記事内の「面白い」は、『純粋娯楽性理論』の定義に従っています(読んだ感想はこちら)。

丁度東京にいたので公開直後のテアトルで見たのですが、その時点で立ち見大量&ネット予約したのにチケット受け取るまで10分以上並ぶ盛況ぶりでした。しかも、終映後に拍手が起きる様な状態だったのですが、正直そこまで乗れなかったのですよね。もの凄くしっかり作ってありますし、映像表現も声の演技も出色でした。ただ、どうにも乗りきれない部分がありまして。
で、見終わったあとも色々考えていたのですが、他者の感想にはしっくりできるものもできないものもあり、多分まだ提出されていないであろう視点から書いてみたいと思います。

と言うわけで、要点から。
「歴史物を突き詰め、『予想外の事態』どころか登場人物の意志決定を徹底的に取り除き、感情移入の強化に専念した作品。私の好みとはずれる部分があるが、にも関わらず内容は圧巻と言わざるを得ない」
です。

まず大前提として、これは昭和初期から同20年までの呉・広島を舞台にした作品です。つまり視聴者にとって、どの様な「大きな」イベントが起きるかは、予め解っているわけです。この点で(原作付きである点を差し引いても)「面白さ」は大きく減じることになり、一方、ひたすら生活者に徹するのんきな主婦を逃れられない悲劇が約束された世界の片隅に置くことで感情移入の効果は高くなります。

ここで、「面白い」作劇を行うためには、大きな悲劇の中で主人公がどんな意志決定を行い、その結果どの様になるか、と言うのが重要なファクターになるのは言うまでも無いでしょう。約束されたタイムスケジュールの中で、主人公がどの様な選択をして、その結果どうなるか。これが、「面白い」「歴史物」のお約束となります。

ところが、この作品は、メインストーリーから意志決定を、そしてそこと密接に繋がる面白さが、徹底的に排除されています。
ちなみに、枝葉での「面白いシーン」は多いのですが、それについては後述します。

では、意志決定の排除についてどう言うことか説明しましょう。
この物語の主人公すずは、重要な場面で意志決定を行いません。正確には、「意志決定を行わないという意志決定すら行えない」「意志決定に意味がない」状態に常に置かれます。

まずは、人生の重大事である結婚について、それを受け入れるという意志決定も受け入れないという意志決定もしていません。幼馴染への恋心がありながら「断る様な理由も見あたらない」と言う風に、ただなすがままに話を進めます。恋心を振り切って周囲の期待に応えるでも、恋心を優先して縁談を何とかしようとするのでも無く、ただ流されると言うより流れていきます。恐ろしいほどドラマがなく、恐ろしいほど「面白さ」がありません。
本来ここで話を「面白く」するのであれば、どちらかを選択させねばなりません。どちらに行っても、少なくとも面白くはなります。あの脚本・原作は、折角のイベントがただ流れ去っているだけで、全く見せ場になりません。
これは、批判しているのではありません。「面白さ」は作品の魅力の1パラメータでしかなく、この原作・脚本は、それよりも優先(と言うより意図的な排除による別ベクトルを強調)していると言うだけです。

あるいは、幼馴染との再会について。あそこは珍しくすずが「流されていない」場面なのですが、揺れた結果の意志決定と言うよりも、既に確立した夫との関係を幼馴染に示す事で、現状を端的に提示しただけに見えます。つまり、前提は最初から出来上がっており、あそこで幼馴染は最初から背景に過ぎなくなっているわけです。仮にあそこで幼馴染に流されたとしても、その心は最初から決まっており行動に意味は無い。だからこそ、幼馴染もすんなり身を引いてしまうわけで、あのシーンは既に決着した事象の確認でしかありません。

そして何より驚愕したのが広島への原爆投下のシーンです。すずが呉に残ると決めたのは、原爆の投下とほぼ同時です。つまり、あれだけ重要な意志決定が、最大の歴史イベントである原爆投下とリンクしていないのです!
本来この舞台であの意志決定を描くのであれば、原爆が落ちるより十分に前でなければなりません。そうであれば、「すずが呉に残る意志決定を行ったおかげで原爆投下に巻き込まれずに済んだ」と言う形になり、彼女の意志決定は意味を持ちます。逆に、広島に帰ると言う選択をするのであれば、あのタイミングで構いません。それならば、「意志決定を遅らせたおかげで投下に巻き込まれずに済んだ」と言う、これまた彼女の行動に大きな意味ができるからです。
ところが、あのタイミングでああいった意志決定を行うと言うことは、つまるところ原爆投下との関連で彼女の意志決定には何の意味もなかった事になります。

このように、徹頭徹尾主人公すずは物語において、意志決定の機会やタイミング、意味を与えられません。世界は様々な災厄や幸福を彼女に降り注がせますが、それらを回避したり拒否したり、あるいはそれを意識的に選ぶ(志願兵として戦場に行ってひどい事になる戦争映画のフォーマットの様に)と言った能動的行動は許されず、ただひたすら「世界の片隅」で世界から一方的に弄ばれるのです。

このように、メインシナリオにおいて主人公は意志決定を行えず・行わず、そこに起因する面白さは排除され、観客は、ひたすら彼女が世界から享受する/投下される悲喜劇を体験させられることになります。これを彩るのが、散々指摘されているすずさんの強くしなやかな個性であり、美しい情景描写であり、徹底的にリアルに作り込まれた舞台です。あの時あの場所で主人公がどの様に行動するか?と言う面白さ・予想外の展開は捨て去られ、すずさんと言う感情移入しやすい生活者の目を通して、あの戦時下を体験させられる。それこそが、あの作品の本質であり、凶悪さ・力の根源であろうと思われます。
「あなたは自分で選ばなかった」と言う趣旨の事を小姑さんが言って居ますが、だからこそ意味があるのでしょう。自分の意志を持って運命を切り拓かれては、「あの厳しくも優しい世界に翻弄されるすずさん」に感情移入するのは難しくなりますから。

以上を踏まえて、映画を見終わった時に私の一番強い感想は、「なんて『きつい』作品なんだろう」でした。個人的な性格からすずさんに感情移入することは難しかったのですが、一歩引いた状態で見ていてすら、逃げ場のない状況で良いことも悪いことも受け入れ生活者の範囲であがくしかない状況を叩き付けられ、恐ろしい疲労を感じたのです。

ちなみに、すずさんがもっとも大きく意志決定を行った様に見える焼夷弾の消火シーンが、結局の所家一つ救う以上のものではないこと(しかも、エンディングでは作中では描かれない地震のせいで、更にボロボロになっている)、世界に関わろうと決意しても戦争という大きな状況には当然至極に全く意味を持ず、そのまま敗戦シーンにつながると言う構成など、この意志決定に意味を与えない・排除しているという見方を補強してくれるかなと思います。

それと、何とかこの映画が見れる(心へのダメージ・圧迫感の面)のは、のびやかなすずさんの心性と共に細かなシーンで面白い物(予想→肩すかし。空爆寝落ちや防空壕ラブシーンなど)が多くあるからなのですが、こう言った面白いシーンを構成する力があるにもかかわらず、それらが本筋から排除されているというのも上手いバランス感覚(面白さも用意するが、本筋には近寄らせない)だなと思った次第です。


と言うわけで、非常に力があり、感情移入という意味ではべらぼうに強力なのですが、本筋での面白さを排除した特異なスタイルと精神的圧迫感で「自分にとって」最高傑作とまでは言えませんでした。ここは単純に好みの問題で、純粋に不出来な部分に憤った「君の名は。」の場合と違って、心から凄い・素晴らしい作品だと言うことができます。

逆を言うと、これだけ基本的な作劇手法が自分の好みと離れていても手放しに「素晴らしい」と言える内容でしたので、是非とも鑑賞することをお勧めしたいと思います。


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